兄がキスしているのを、一度だけ見たことがあった。たぶん俺が小学生で、兄が高校生のときの事だ。5時を知らせるメロディーが響き渡る町の、俺がたまたま遊んだ帰りに通った公園で。今よりもすこし黒髪が長かった以外、ほぼ何も変わらないであろう柔造は、公園のすみで、高い背を縮めて女の子にキスをした。俺は別にまだ兄のことを何とも思っていなかったから(あたりまえかもしれない)、そういう行為に興味があっただけだろうけれど、キスの前のちょっとした雑談からキスが終わって柔造が背を伸ばすまで、それはもうしっかり見てしまっていた。相手の女の子は彼が好みそうな、黒い髪をショートに切った、ほっそりしたひとだったと思う。
 今の今まで、自分がそれをするようになっても、誰かのを見ても思い出さなかったのに、突然その夢をみた。小学生だった頃の自分の気持ちはよくわからない。公園の赤い柱が立った入り口で、ぼんやりと一連を見つめる自分をうつすだけの夢だった。その夢をみた俺はやっぱり、朝ぼんやり起き上がったあとでとても恥ずかしくなった。兄の夢なんて今まで一度もみたことがなかった、からだろうか。
 だからこんな変な、ありえない、ひとによっては気持ち悪がられそうな願望を抱くようになってしまった。そこに指で触れるだけで良い、できれば唇で触れてみたい。いつしか俺は、兄にキスをしたいと思ってしまっている。つくづく呆れるやつだと自分でも感じる。
 だからと言って、彼の寝ている部屋に忍び込んでまでしたいとは思わない。ただ、いつかチャンスがあったらな、出来心で、と願うだけだ。


 まだ少し肌寒い風が部屋に吹き込んで、柔造はぶるっと震える。
「さっむ!金、窓しめてぇや」
 大の大人がするようでないこぢんまりとした体育座りをして柔造は言った。寒そうに両腕を手のひらですりすりとこすっている。
「半袖なんか着とるからやん」
 俺がそう反論するように呟くと、ええからしめて、とわざと震えたような声で催促をされたので、しぶしぶ立ち上がってガラスの窓をぴしゃんと閉めた。途端に外の音や風の音や冷たい空気が部屋に流れてこなくなり、ひとがふたりだけの部屋になる。金造の向かい側にある小さなテレビが、これも小さな音量を響かせていて、でもほとんど意味をなしていなかった。一応見ているふうを装っているけれど興味がわく内容でもないし、全く頭に入ってこない。
 ごくん、と後ろから喉で酒を流し込む音が聞こえた。部屋におし入ってきては、何をするでもなく自分だけ酒を飲んでいる柔造の音だ。特に珍しいことではないからこそ、この先の状況がよめている。寝息が聞こえてこないうちに部屋から追い出さなければ自分の寝床が無くなってしまう、背後で金造の布団に寝転ぶ柔造を思いながらため息を吐いた。

 あの夢をみたのは曖昧ではないけれどたぶん二週間くらい前で、それから兄と長時間一緒にいる機会がなかったから、今日は妙に緊張してしまっていた。夢をみた次の日にこんな状況にならなかっただけでも救いだ。何かをしでかそうというわけでもないけれど、たぶん、もっとよそよそしくなってしまっただろうから。
 兄にも自分にも恋人がいたら良かったのに。そしたらあの時を思い出すなんてことなかったと思うし、思い出したとしてもキスしたい、なんて感情は抱かなかった。

「柔兄」
 確認するように静かに名前を呼んだ。やはり兄の返事はない。さっきまで眠いとか寒いとかぶつぶつ嘆いていたのに、もう寝てしまったみたいだ。彼はアルコールを含むと大抵、こどもみたいにすぐに眠ってしまう。そういったときだけ金造は、柔造が兄だとはっきり言い切れないやんわりした気持ちになる。
 すぅすぅと、規則的な呼吸音が耳にとどいた。随分と長いことその音を聞いていて、引き込まれるような眠さを感じたときにふと気づいた。
 もしかして今この時が、俺の願望を叶えるチャンスの場面ではないだろうか?
 不意に気づかされた後はなんだか急にまわりの温度が高まったみたいに、眠気も消え失せて、心臓がどきどきと鳴った。胸が高鳴るなんていつ以来だ、と感じるくらいには慣れない感覚だった。

 振り向いて、自分の布団の上に仰向けに寝ている兄を見て、今さら自制心がはたらく。
(でも女の子ちゃうし男やし、ていうかきょうだいやし、言い訳なんか酔っただけって言えばおわりやし、)
 都合の良い理由なんて考えてみるけれど、それでも、柔造の眠る、健やかすぎる兄の顔を見てしまえば、指のひとつも動かせなかった。
(……俺はヘタレか)
 心底、心が歪むような呆れを覚える。

 鼻をひとつ啜れば、鼻腔をアルコールの匂いがついた。小学生のときは、お酒の匂いが大人の象徴みたいだと思っていたけれど、俺はまだ大人になりきれていないままだ。カタカタ窓を揺らす多分まだ冷たいであろう風が、心に吹き込んだようにやりきれなくなった。
 柔造の足元にぐしゃぐしゃになっていたかけ布団をひっぱって、お腹のあたりまでかけてやる。こうやって兄みたいな事する相手、柔兄にだけや、とおかしいように口を緩ませた。
(おやすみ、柔兄)
 夢をみたのもキスしたいと思ったのもこうやって結局何一つできなかったのも、全部柔兄のたくらみなんやないか?と兄の眠るその顔をみて憎たらしくなる。悪夢でもみてくれないかと卑屈になって、そう思っている自分に傷ついた。俺はやっぱり大人になんかなれていない、飲みかけのぬるい酎ハイを口に含んで、目を閉じながら色んな感情と一緒に流し込んだ。





#キスとことば-あおえく
110520

へたれっこ四男










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