手を離したらだめだとおもった。離れていく温かさを、爪の先だけをすべるように触れて、とらえたとおもった男の指先はとおざかっていってしまった。 電車でいねむりをしてしまったようなそんな微かな倦怠を体に感じる。でもそこは目を開いても、電車の中ではない。 「おまえ、人が手当てしたってる最中に寝るとか最悪やな」 すこし顔を上げると、前には次男の姿があった。いつもどおりの袈裟のままあぐらをかいて座って、よく見かける茶色の薬箱を音をたてながらあさっている。さっきの言葉は真実だったようだ。まだぼんやりとかすんだ重い脳で感じた。 「なに、探してんの」 鑷子や鑷子、柔造はごそごそ薬箱の中のものが暴れる音を響かせながら答える。ピンセットって言ったらええのに、十字の印を段々はっきりしてきた視線がとらえた。 鑷子の使用目的を考えて、ついさっきつかまれていた感覚を残す右の人差し指を、見る。目を凝らすと、おもったようにみじかい木の繊維のような一本が指の先に刺さっていた。痛みはない。けれど昔、針が体にはいると血脈をたどって心臓までとどき、それが刺さって死んでしまうという話を聞いたことをおもい出し、ぞわっと恐怖を覚える。このまま一押し、すこしでも押してしまえば皮膚にはいって抜けなくなってしまいそうな小ささに、目を離すことができなかった。 「かしてみ」 その手をそろりととられて、思わずかたくなった金造に笑いかける。そんな恐がらんでも兄ちゃんが何とかしたるから大丈夫、そんな響きの言葉をずっと昔になんども言われていたような記憶がある。きょうはよく昔をおもい出す日だな、と懐かしい気分がよみがえった。 「痛いんは嫌や」 しばらくあれこれ角度を変えながらじぶんの指先を見ていた兄が顔を起こして、呆れたような笑い方をした。 「抜くだけやで?」 包まれた指は、もしかしたら彼にわかってしまうほどに震えているかもしれない。正直男としてどうかともおもうけれど、ほんとうに痛いのが苦手なのだから仕様が無かった。兄の手はきのうと変わらずやっぱり傷だらけで、固みをおびている。女の子みたいなすべすべした小さい手ではないその手は、いつもなぜかじぶんを安心させた。 「その言葉、そそるわ」 え、と声を発する間もないまま金属の無機質な冷たさが皮膚に触れて、一瞬で離れた。呼吸をとめても苦しくない時間、見ればもうそこに異物はない。 胸をなでおろして息を吐いて、とられたままの手が彼に引き寄せられるのを、想起して驚いた目でおった。それは柔造の唇のまぎわまで近づいて、息をのむ。体が波打った。理解するまえに事がすすんでしまって、もう、いまを見まもることしかできない。舐めとられた指の先から熱が伝わりそうで恐かった。兄ちゃんが何とかしてくれるんじゃ、なかったのか? 「…震えてる」 ぬめった指が空気にさらされて冷たい。柔造の伏せ目がちな睫がひとつ落ちるのをみて、これはだめだ、と、こどものように意識した。 (そら、震える、わ) 涙をだす前のように、まぶたがあつかった。 「もう痛ないやろ?」 いいからはやく手を離してくれと、願う。心臓のこの鼓動の音が聴こえてしまいそうで臆病になっている。 彼はどういう思いをいまもっているのだろう?それがまったく、ひとつも理解できないまま指先だけが乾いていって、無駄な沈黙が刻々とすぎた。俺達は兄弟であって兄弟でない。それ以前にひとりの人間だし、男なのだ。その事実がじぶんをひどく落ちつかせ、動転させる。 さっきの木の一部がいっそ、血といっしょに流れて心臓に刺さってしまえばいいのにって、そう深くおもった。 #ハートアンドフェイリア-あおえく
110618 ア ヴェイン オブ ペイン |