早くこの服を脱いでしまいたかった。嫌悪のような、憎しみのような、または悲観するほどのこの黒色は、脱いでしまってすぐ捨てるつもりでいる。一度しか着脱衣していないけれど、それは仕方のないことだと思った。
 彼女のアパートにたどりついた、中から灯りはもれていなかった。どうやらまだ帰宅していないようだ。
 彼女は今日、あの場に姿を見せていたのだろうか?白いブラウスと真っ黒なジャケットと、彼女ならたぶんパンツを、雨の下で見えないように濡らして、なみだを流したのだろうか?僕にはそれが想像も推測もできなかった。
 ドアノブに手をかけてまわしてみると案外簡単に開いた。でもこれはいつものことなのだ。中に入って雨のにおいのする玄関を見下ろしても、黒いヒールやローファーは見当たらない。
 そこに靴を脱いでそろえて、しめった靴下のぺたぺたとはりつく音を狭い廊下に響かせながら歩く。ちいさなこどもが、一生懸命歩くようなそんな。部屋の中に入ってみても雨が落ちるのが聞こえた。その不規則な音は、悲しい音なんかに聴こえやしなかった。
 空はもうすでに黒い闇におそわれて、日は落ちる。ここに来るのに戸惑いなんか覚えていない。感覚的に、導かれるようにこの部屋までくる途中、靴ずれをする。白い靴下に染みこむ血の色がどうにも、まるで決められたみたいに今日この日に相応しすぎていて、僕は静かな微笑を漏らしたのを記憶している。冷たい。でも生鮮された赤の色。
 いつもと同じく、ソファの前のちいさな机には酒瓶やら缶がごろごろ転がってあった。片すふりをするようにニ三本だけ立たせてみた。
 そのまま口元まで持ってきて、舐めるようにすこし味わってもよかったと思うのだけれど、これ以上じぶんを失いたくなかった。失うよりも、どちらかのじぶんを傷つけるほうが楽になれるからだった。自嘲癖は無いと思う、でも、いまはそんなきもちでいたかったのだ。
 じぶんの首を絞めていたネクタイを日常的な動作で緩め、ソファに投げるように置いた。それはだらりと垂れ下がった後に床に落ちてしまう。
「来てたんだ」
 擦れを帯びたすこし低い声がとどく。落とされたネクタイ、ビールの缶、めざましの時計、無機質な壁、彼女の目。すべるように視線を彷徨わせて辿り着いた。あっけないほどそれは現実であった。彼女からはもう人間のぬるい体温しか感じることができなかった。
 唐突な眠気と怠惰が体を侵食するようにおそう。羽織っているスーツが水を含んで重くなっているのをいまさら思って、ゆるりとした動作でそれを腕から抜いていく。
 頭や、脱いだばかりのスーツや靴下に吸い込まれた雨が流れ落ちて、それが溜まってゆくのを、同情のような眼差しで追った。目を瞑って。子守唄のようでもあった。僕は僕を、見守っているのだ。
「おまえ、泣いてないんだな」
 彼女は目をほそめてひとつ、ねこみたいに笑う。
(あなたは泣いたのか、)
 そうやって、問い返すように思う。
 それから彼女は、先ほど僕が立たせたひとつの缶を細い透きとおった手で掴んで、ぐいと飲み干した。床に落とされた雨くらいの量しか入ってないはずなのに、彼女はごくんと喉を鳴らした。
「シャワー、かりてもいいですか」
 じぶんの声にすら酔いそうなぬるいぬるい温度が僕を戸惑わせる。このまま手を彷徨わせてしまえば、どこか、どこへでも、遠く、おそれるほどの温度が。
 彼女は湿ったネクタイを拾う。乾いた手で。
「もういっかいネクタイ、つけてよ」
 そのままの手で僕の首に、掴んでいたそれをするりと忍び込ませて無邪気な手つきできゅうと絞めた。今度こそ首が絞まったように息がつまって全身が逆撫でられる。酒の混じる露のにおいが鼻腔と、それと目の奥をツン、と痛みとともについた。
 もう一度あの場所の彼女を反芻して。白いブラウスと、真っ黒なジャケットと、彼女ならたぶんパンツの服装。雨。堪えきれず手を伸ばしてしまった。でもそこに存在するのはたったふたつの、濡れそぼった罪だけであった。





#罪-あおえく
1107〜

ゆきおが最低だったらというはなし










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