ティエリアはそっと引きだしをひらき、ほとんど空のその奥からひとつの銀のはさみを取りだした。持ち上げて部屋の下にさらすと、ライトの光でより銀を増す。はさみなんてものを持ったのは本当に久々だと思いながら、持ち手を右指でつかみ、ニ三度空気を切ってみる。はさみどうしがすれる音がするだけだった。
 まっしろの、部屋の床には何も落ちていない。それを確認するように一度目をやり、すっくと立った。左手で後頭部の髪をさすると、手にきたないものがこびりつく感じがして、どうにも胸がざわざわする。先ほどの吐き気のような気分はしなかったが、それでも気持ち悪いものは気持ち悪いのだった。目を閉じたらじぶんの後頭部の髪の毛が見えるような気がして、たぶんそこには黒いべっとりしたものがついているんじゃないだろうか、とうっすら思った。
 無造作にそのひとふさを掴んで、ひっぱると、皮膚も痛かったけれど、あまり気にしなかった。右手のはさみを後ろにまわしてそのふさをとらえ、てきとうに指を動かすと、いとも簡単に、あっさりとそのむらさきの髪は切れてしまうのだった。目を閉じてももう瞼のうらにはあの光景はない、ただまっくらな瞼の内側が見えるだけだ、と、ティエリアは息を吐いた。
 髪の毛は浮かずに、音もださず、たださらりと床に落ちた。もうそれはただの物体でしかない。先ほどまでじぶんの一部だったのが嘘のようにまっくろに染まっていってしまう。髪の毛を切ったのは正解だった、とまだはさみを持ちながら、ティエリアは感じるのだった。
 けれどこの左手は、左指は切るわけにはいかない。でももうすぐなのだ、もうすぐ、あのまっくろの髪の毛みたいにたぶん、染まっていってしまう。簡単にこの指が切れればいいのに、と思った。ただ一回、右手をゆっくり動かすだけで。
 はさみの刃の部分を人差し指に横にしてあてて、すうっと滑らせると、ほんとうにすこし、血がでた。それは赤かった。あの黒を塗りつぶしてしまってくれたら楽になるけれど、かりそめでしかない行為でもこころはすこしかるくなって、またひとつ息を吐いた。
 床に散らばった髪の毛はひとつのこらず宇宙に葬ってしまおう。じぶんのこの左手は誰かに戒めてもらおう。目をとじる。でもそこには宇宙のような黒でも、床の髪のような黒でもない、黒が広がっている。どうせなら痛めてくれたほうが僕は楽だった、と後悔をした。





#Don't touch(瞼のうちがわ)
110406

相手は誰でもいい










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