つう、と液体をたっぷり含ませた筆は足跡のように透明な光沢を残し、きれいな一本線をえがいて爪を滑り降りた。その独特な冷たさに御幸は咄嗟に手を引きそうになったが、声にならない声にとどまる。
 御幸と向かい合い座っている降谷は真剣な眼差しで、教わったように容器のふちで筆をととのえて余分な液を落としている。緊張する行為のせいか頬がわずかに高揚しているのがわかって、御幸は気づかれないように静かに笑った。
 一筆一筆、爪に滑るたびに透明なコーティングがされ、それは皮膚との境目ぎりぎりまでに広がる。
ようやく親指を塗り終えた降谷は、ふうー、と長めに息を吐いて何度か瞬きをした。その目はまるでマウンドに立っている時のように黒々と、濃く強い存在感を放っていた。集中しているのだな、と御幸は感じた。

「まだまだ先は長いぜ」
 ひらひらと指を振った御幸に、降谷は内心むっとする。そんなことはわかっているし、言葉にだされると疲労がよりのしかかってくる。急げば急ぐほど完成の汚さは目に見えているし、何よりマニキュアをぬるという行為に慣れていないので、急ぐこともできないのだ。
またため息をつきたくなったけれど、かわりに一言つぶやく。
「難しい…」
「御幸センパイの有り難さを知るいい機会だろ?」
 焦りを知ってか、彼はからかうように、残り九個ーと、にたっとした顔で言った。叫ばれたその言葉にノーアウトより計り知れない先の長さを感じ、肩を落とした。
 筆を容器のふちで整え、空いた手で御幸の手を取り握る。思った以上に人差し指の爪は細い。わずかに不安を感じたが、それを拭い去るように筆を添わせる。
「冷てぇ…」
 息を吐くような声と弱々しい語尾に瞳が揺らいだ。顔をあげると、そこにはいつかを思い出させる御幸の顔があった。二人でいるときしか見れない、僕以外は見ていない、だろうその顔。その表情に酷似していて、目が離せなくなって、マニキュアを慎重に塗っていた手も震えてとまってしまう。
 降谷の目の行き場に気がついた御幸も、ふと顔をあげる。ふたりの目線がぴたりと合った。
「なに?」
 まだ塗り終えていない人差し指を残して動作をやめた降谷に、すこし訝しげな顔をよこし御幸は言った。
「なんでも」
 ないです。そうやってまたコーティングを再開させるけれども、先ほどの御幸の顔が頭にちらついて、どうもうまく集中できない。御幸は特に気にしていないのか何も言わずにまた視線を落としたが、降谷はじくじくと胸が疼き、光沢はきれいな線をえがいてくれなくなった。


「あれ、全部塗らねぇの?」
 きゅ、と蓋を回し閉じ始めた降谷を見て御幸は訊いた。
 こくり、首を縦に傾けた降谷の顔を覗き込んでみると、ぬり始めたときのような気力はなさそうだ。マウンドでの体力は消耗しているものの凛々しい姿とは打って変わった、神経も体力もただ磨り減っただけのやつれた姿に笑ってしまう。
「うん、なかなかうまいじゃん」
 それは御幸の言うとおり、たったふたつとは言えど液がはみ出たところもない、予想以上のきれいな出来上がりだった。
苦手だと言うものだし、今までほとんど自分がぬってきたものだから、もっと呆れるような出来になると思っていた。ふたつだけ丁寧にコーティングされた左手の爪をじっと眺める。
「…でも疲れました」
 そう告げながらぐったりと床に倒れ、長いため息をついた降谷の頭を、御幸は後ろ手に撫でた。お疲れ様、と優しい声色で告げる。思いついて、そのまま体をひねらせると、唇をすべらせておでこにそっと触れた。先ほどからの緊張のせいか、そこはとてもあたたかい。
 唇は気づいたうちにはもう離れ、放心したままの降谷を置き去りに、何事もなかったかのように後ろ姿の御幸は口を開く。
「これだけできんならもう自分の爪ぬれんじゃねーの?」
 なあ、そう言って振り向いた御幸の瞳が、降谷との距離の近さに驚き丸くなる。
 背後で音もたてずいつのまにか起き上がっていた降谷に、先ほどマニキュアを塗られた手首を握られて、そのまっすぐな視線にすこしのけぞった。黒い眼光と力の強さに、まるで射られているような気分で、色々なところが突き刺さるようにいたい。
 笑みを含んだ御幸の声が、ふたりの間で響く。
「ご褒美、そんなに気に入った?」
「…足りません」
 御幸は薄く笑い、近づく降谷の唇へ、手首の拘束もそのままに、指をあてがった。
「左手ぜんぶ塗り終わったら、やるよ」
「…十本、ぜんぶ塗り終えたら?」
 なに、くれるんですか。
 指のすきまからはっきりした声が耳に届く。それは吐息とともにずくんと胸にまで響き、あたたかい息が指先に吹きかけられた。いつだってまっすぐな降谷の物言いは、時に御幸を奮い立たせるのだ。
 手首を掴むまだ力の緩まない降谷のそれを、やわらかな圧力でほどいて、ただ触れるだけのように易しく結んでやる。
「まだ、ひみつ」
 声は、とても甘い音で空気を震わせる。
 その秘密が暴かれるのはいつなのか、御幸の笑みに気が急いた降谷は、乾いたばかりのぬるい爪をわざとひっかいた。







#秘密のご褒美
140210










inserted by FC2 system